伝え方が?割

電車の中で「伝え方が9割」という本の広告を見た。常々、物事をどう伝えるかって大事だよなと思っていたので、その本の題名に共感する一方で、自分の中にどこか納得できないというか腑に落ちない気持ちが残っていた。


腑に落ちないモヤモヤは何なのだろうと考えていたのだが、Amazonでその本のレビューを読んだときに、答えに近いものが見つかった。そのレビューは「中身が9割で、伝え方は残りの1割の中の9割」と書いていて、割合の正しさはさておき、伝え方よりもまず大事なものがあるということに強い同意を感じる。このレビュー自体は、知性や人間性を磨くことが大事という趣旨だが、ことコミュニケーション技術というだけの範疇でも伝え方以前に大事なものがある。


それは、自分が相手に何を伝えたいのか、相手に何を求めているのか、ということを突き詰めて考えること。伝え方が下手なために、理解してもらえなかったり誤解されたりすることもあるが、多くの場合は何を伝えるのかが曖昧なまま伝えてしまっていることが多い。また、何を伝えたいのか、相手に求めることが何なのかを具体化すると、必然的にその目的を達するためにどういう伝え方をするとよいのか考えるようになると思う。たとえば、あるトラブルを知らせるメールに返信するとき、いきなり感情のおもむくまま書き出すのは最悪で、自分はこのトラブルの原因を知りたいのか、部下が解決するための手助けをしたいのか、はたまた自分にはそのトラブルを起こした責任がないと言い張りたいだけなのか、その自分の願望を具体的に把握することがまずすべきことである。願望が把握できれば、どう伝えるかは自ずと決まってくるはずで、それをうまく表現できるかの巧拙は大した問題ではない。


伝えるという行為がどういうものかを伝えようとしてみると、外向的な行為である以上に内向的な行為なのだなと改めて思う。

プラスαにこそ

ランチにサービスで出てきたデザートがあまり美味しくなかったなんて経験は、誰でも多少あると思う。また、6/26(水)とメールに書いてあって日付と曜日が食い違っていたなんてことも、多くの人が経験することだと思う。


全くつながりがないような二つのケースだが、共通しているのはサービスや情報の出し手側にしてみると、プラスα的なものであるということ。デザートがなくてもランチとしては成立するし、6/26とだけ書いたからといって正確に伝わらない訳ではない。だが、食事をすれば最後に甘いものを求める人がいるし、日付よりも曜日で言われた方がすぐに頭に入ってくるという人は少なくない。意識的にせよ無意識にせよ、そういうニーズに応えて、基本部分にプラスの要素を付け加えた結果である。


こういうプラスα的なものは、出し手側からすると得てして「善意なのだから品質が低くたって文句言わないでくれ」という考えを持ちやすい。しかし、これは大きな間違いだと思う。
デザートが美味しくなければ、全体の評価はデザートがなかった場合よりも下がることが多いし、日付と曜日が合ってなければどっちが正しいのか迷って相手が聞き返すことにもなる。プラスαの部分に細心の注意を払えないのなら、潔く割り切って全くやらない方が労力も少ないし評価も下げないしで、遥かによい。


ただ、細心の注意を払って積み上げたプラスαが、大きな効果を生むことは間違いない。「神は細部に宿る」なんて言葉も、本質的にはそういうことを言っているのかもしれない。

欲望の力

豊臣秀吉の逸話の一つで僕が好きなものが、備中高松城を水攻めにする準備をしているときに、大量の土嚢を一気に運ぶために、ただの運搬作業に破格の報酬を出したというものがある。この報酬の話を聞きつけて、近隣から大量の農民が農作業を放ったらかしてやって来て、土嚢を運ぶ大行列となり、あっという間に堤防が完成したという。思い通りに人が動くその様子を見て、秀吉は大騒ぎして喜んでいたらしい。


この話が示すのは、人を動かすには欲望に働きかけるのが最も効果的だということである。欲望を刺激する仕組みさえ作れれば、あとは特別な力を加えなくても、物事は勝手に進んでいく。マネジメントでなすべきこと、というと難しく受け止められがちだが、一言でいえば如何にして周囲の人の欲望を刺激するかに尽きるような気がする。


そうは言っても、最近は欲のない人が多くて…という声もあるが、欲のない人というのはいない。それは欲の種類が多くなって一括りには把握しづらくなっただけで、生きている以上、何らかの欲望は持っている。物欲や金銭欲はなくとも、自分の技術を向上させたいという向上欲や周囲に認めてもらいたいという顕示欲が強い人もいる。上昇意欲はなくとも、今の地位は保証して欲しいという安定意欲はある人も少なくない。自分はこういう欲を持つのだから相手もきっと同様、と思い込むのでなく、人によって欲の内容が違うことを前提に置いて、相手の欲望を理解するのが重要なのだと思う。


秀吉は「天下の人たらし」と言われるほど、人の心を掴むのが上手かったといわれるが、その力の源は人の欲望を本能的に察知できることだっただろうと思う。どんな知識や賢さよりも、最後はそういう力がものを言う。それは古今東西、変わらない。

グーグル ネット覇者の真実

グーグル ネット覇者の真実 追われる立場から追う立場へ

グーグル ネット覇者の真実 追われる立場から追う立場へ

この本は、Kindle paperwhiteを買って最初に読んだ本なのだが、Googleのこれまでの幾多の葛藤や内部の秘話が克明に描かれていて、想像以上に面白かった。同社の中国事業が撤退に至る経緯など興味深い内容はいくつもあるが、僕が最も印象に残ったのはマリッサ・メイヤーという1人の女性。


メイヤーは同社創業期からのメンバーで、エンジニアたちの統括的ポジションを長く務めた。そのメイヤーが製品のデザインにダメ出しを続け、怒ったデザイナーが「このデザインの何がダメなんだ」と聞いたときの彼女の答えが、メイヤーのすごさを表している。彼女は、「人間の主観が入り過ぎているように感じる。Googleの製品はマシン主導であり、マシンによって作られている」と答えた。マシン主導とは、機能を中心に考え、その機能が最大のパフォーマンスを発揮できることを目指す、というようなことだと思うが、こうした判断基準を与えるということは簡単なようでとても難しい。


Googleのような、腕もクセもあるエンジニアが集まった会社は、方向性を見失って迷走するリスクを常に抱えている。「世の中の全ての情報を検索可能にする」とか「邪悪になるな」とかのやや抽象的な経営ビジョンだけでは、その迷走を防ぐことは困難で、先の言葉のような具体的な判断基準や針路の提示が必要だったと思う。自分たちは何者でどこに進めばいいのかという、Googleの「自分探し」に答えを与えたことの価値は、もしかしたらGmailGoogle Mapsを作ったことに匹敵するのかもしれない。


メイヤーは現在、業績低迷中の米YahooのCEOとなり、在宅勤務を廃止するなどの施策を打ち出して話題になっている。Yahooでも「自分探し」を終わらせ、業績を復活させることができたなら、彼女はIT業界に名を残す偉人になるだろう。

女性的とかけて

相手が男性でも女性でも、ときに「女のようなものの言い方だな」とか「この人は女性的な性格だな」と思うことがある。多少差別的な表現であるのは間違いないが、女性が男性を見るときにも「女っぽい」と思うことがあるようなので、ある程度の共通認識は得られている表現なのだろう。


では具体的にどういう振る舞いや性格が「女っぽい」のか考えてみると、その一つは何かうまくいかない現実や起こった問題に対して、whyが前面に来るということのような気がする。この対義語(おそらく「男っぽい」ではない)があった場合に、それが示す意味はhowが前面に来ることだと思う。「なんでできないの?」「なんでこんなことになったの?」と喚き散らされた経験は誰しも少なからずあるはず。もちろん原因を考えることの意義を否定するつもりはないが、howの対策を立てるために原因を考えるのと、原因追及自体が目的化しているのは全く異なる。


男尊女卑の時代には、男性はただ威張っていただけではなく、問題が起きたら何とかするという責任を負っていた。その裏返しで、女性は問題解決を男性に依存するという文化や風潮があり、その名残が「女っぽい」という表現に繋がっているのではないかと思う。


本来、完全な意味での男女平等というなら、女性は権利や発言力だけでなく、問題解決などの責任も引き受けなければいけない。だが、世の多くの女性はある程度の権利を求めつつも、問題の解決は男性が担って欲しい、担うべきと思っている。それが、男性の側からすると「女は結局これだから・・」という見方に繋がってしまう。そういう意味で、本気で男性と対等にやり合いたいと思う女性の一番の敵は男性の見方ではなく、「女性的」な女性自身なのかもしれない。

ジャストインタイム

カンバン方式の生みの親である大野耐一氏の著書の中に、「モノだけでなく情報もジャストインタイムでなければならない。必要になる情報だからといって早く伝えればいいというものではない」といった趣旨の記述があった。著書を読んだ当時はそれほど気に留めなかったのだが、最近はこれが非常に本質を突いたものだと思う。


A、B、Cの三つのことをやって欲しいときに、得てして「とりあえず言っておいて損はない」と「AもBもCもやってくれ」と言ってしまう。そうすると相手はそんなに一遍にできないよ、という気分になってどれも中途半端に仕上がってくることが多い。もちろん、相手が非常に優秀であれば、優先順位を付けてうまく捌いてくれるが、相手の能力に依存する進め方はあまりうまいとは言えない。


こういった依頼事項に限らず、物事を伝えるタイミングはその物事の内容と同じくらい重要だと思う。誰しも心に強く残っている言葉というのがあるだろうが、その言葉はそのタイミングで言われたから心に残っているので、同じ内容でも違うタイミングで言われたら全く心に響かない可能性もある。自分に強い影響を与えたから他人も同じくらい心を動かされるだろうと、やたらに他人に伝えたがる人もいるが、得てしてあまり響かない。


相手のタイミングに合わせて、今何を伝えるべきかを的確に判断できる、そんな能力を身につけられればもっとうまく周囲を動かせるのだろうなと思う今日この頃。

一手間の価値

少し前からIT業界で流行している言葉に、「ユーザーエクスペリエンス」というものがある。直訳すると「ユーザー体験」ということになり、製品やサービスの開発の際に、カタログ的なスペックではなく、ユーザーがそれを使用して得られる感動や体験に重きを置く、という文脈の中で使われる。


スティーブ・ジョブズが現役だった頃にこのワードをよく使ったとされ、Appleの成功以来、多くの企業や書物でどうすればユーザーエクスペリエンスを高められるかという研究がされている。ただ、突き詰めて考えると、ユーザーエクスペリエンスはユーザーの一手間をいかになくしてあげられるか、ということに尽きるのではないかと思う。一つの入力、一つのクリック、そういった操作をいかに減らせるか。一つ一つは些細なことだが、そのことを細部まで意識されたものとそうでないものはトータルで大きな違いが出る。


エンジニアという人種は、こういうことに無頓着で「そんなの一回押してもらえばいいだけだろ」と無意識にせよ考えている人が多い。それは今も変わっていないし、Apple社内でも大差はないと思う。ジョブズの偉大さは、そういう技術者集団を怒鳴りつけてでも一手間を減らすことに意識を向けさせ、細部までそのことを浸透させたことにある。ジョブズ亡きAppleの一番の懸念は、革新的なビジョンを生み出せるかどうかではなく、一手間の削減を隅々まで行き届かせられるかということのような気がする。


これからのエンジニアに必要なのは、技術力以上に気配りなどのサービス精神なのかもしれない。