読書感想文のコツ

今日は夏休み最終日で、宿題に追われている子供も多いらしく、巷では「宿題代行業」というのも話題になっている。宿題の中でも子供が最も嫌いなものの一つが「読書感想文」で、僕も正直、子供の頃は大嫌いだった。
ただ、読書感想文にはいくつかコツがあって、そのことに気付くとちょっとした感想文は大して抵抗なく書けるようになった。こういうコツを早く教えてくれればよかったのに…と自分は思ったので、その一助になればと投稿してみる。

(コツとは…)

  • 本の中から小さな一つのトピックを見つけて、それをもとにテーマを作る。本全体の大きなテーマを相手にしてしまうと感想もぼやけてしまい、書きづらくなってしまう。
  • 文字数を増やすには、テーマに沿った自分の身の回りの具体例を盛り込む。
  • 書き出しを引用などにしてインパクトを高める。「僕がこの本を読んで〜」という書き出しより、倒置的にした方が読み手の興味をそそる。
  • 小中学生の感想文であれば、極力全体をポジティブなものな内容にする。僕個人的にはネガティブな感想文も嫌いではないが、先生の印象はきっとあまり良くない。

ということで、これに沿って原稿用紙3枚程度のものを書いてみると、以下の様な感じになる。
走れメロス」の脇役の一台詞を題材に「疑うことは悪いことなのか?」というテーマを作り、野球のバッターの具体例で膨らませたといった形である。別にコピペしても自由だけど、自己責任で…(笑)。

「メロス、私を殴れ。私はこの三日の間、たった一度だけ、ちらと君を疑った。」
これはこの『走れメロス』の最後で、人質となっていたセリヌンティウスがメロスにかける言葉です。僕はこの話を読んで、メロスの行動や王の命令の理不尽さより、この言葉がとても印象に残りました。なぜ印象に残ったかというと、疑うのは当然のことで、なぜそれをメロスに謝らなければいけないのかという点が心に引っかかったからです。頼んだ相手は約束を守らなくても特に失うものもない、そんな状況で絶対に来てくれると思い続ける方が無理で、疑ったことの何が悪いというのだろう。

何かを頼んだ相手を疑うということは悪いことなのでしょうか。疑ったからといって、信じていたときと起こる結果には違いはありません。野球を観ていたって、「このバッターは絶対にヒットを打ってくれる」と思っていたって三振するときもあるし、「このバッターじゃ打てないよ」と思っていたときにホームランを打ってくれることもあります。メロスだって、セリヌンティウスに少し疑われてもちゃんと戻ってきたし、もしも全く疑われなかったとしても同じことだったと思う。そもそも、頼んだ相手がきちんとやってくれないときもある。裏切られてしまうときもあります。そういうことを何度も経験してしまえば、疑わずにいることの方が難しく、決して疑うことを悪いことだとはいえません。

では、逆に頼まれた方の気持ちになってみるとどうなのだろう。自分をちゃんとやるのか疑われていると思ったときと、信じてくれていると思ったとき、どちらががんばろうと思えるかというと、それは間違いなく信じてくれていると思えたときです。「どうせ自分がヒットを打つなんて誰も思ってくれてない」と思って打席に立つバッターと、「自分が打つと信じてくれている人がいる」と思って打席に立つバッターでは、結果や確率に違いはなかったとしても、「やってやろう」という気持ちは大きな差があるはずです。その気持ちの差は、もしその打席がダメだったときでも「次こそはがんばる」という気持ちに影響します。信じることや疑うこと自体は悪いことでもない。でも、人間は信じてくれていると信じられるからこそ力を発揮し、次の機会もがんばろうと思えるものです。信じることが、相手が自分のことを信じる力を生み、それがさらに次にメロスが窮地に立ったときにも力を与えます。そういう信じることの広まりを少し止めてしまったこと、それがセリヌンティウスがメロスに謝った理由なのかもしれません。

信じても疑ってもそのときの結果は変わらない。それなら信じる力を広げていきたい。みんなで信じあうことができるようになれば、社会が窮地になったときにもそれを乗り越えることができるように思います。

創作者となる必要条件

佐村河内氏の一件以来、ゴーストライターというのが色々話題になっている。元ライブドア社長の堀江氏の本は本人が全く書いていないと、表紙絵を描いた漫画家の方が告発したりと巷で盛り上がっていた。佐村河内氏の件では、耳が聞こえないと偽っていたことは責められて当然ではある。ただ、作曲の方針に関して細かい指示を出したメモなどを見ると、創作活動に寄与していないという批判には少し違和感を感じている。


違和感のもとになっているのは、何かを創りあげた、と周囲や世間から認めてもらうためには、どの作業をしなければいけないのかという疑問。一人でアイディア出しから、執筆や楽譜作成までやり切れば、創作者として認めてもらえるのは間違いないが、では各工程の担当が分かれた場合にはどうなるのか。
他の国でもそうなのかはわからないが、少なくとも日本では、最終工程である文章や楽譜の記入の部分に重きがあるように思う。作家のイメージだと原稿用紙やワープロソフトに向き合うイメージが強いし、作曲家だと楽譜に音符を埋めたり、Macで音のエフェクト調整している姿が思い浮かぶ。
先の堀江氏の件もおそらく氏自身は全体構想のみで、文章をほとんど書いていないのだろう。そういう関わり方でありながら、堀江氏が創作者となったことに漫画家の方は許せなかった。自分で多少なりとも文章を書いてこその「創作」だろうと。


だが、企画や構想の作成という活動がもう少し「創作」とみなされてもいいように思う。実際に形作る作業はもちろん尊いし価値があるのだが、全体のデザインが優れていなければ、決してよいものはできない。さらに言うと、限定的な集団に伝えるのではなく、不特定多数に伝わる文章を書いたりするのは、ある種の特殊技能であり、万人が持つものではない。人に伝えるべき経験や知識があるのに、その特殊技能がないために伝えられなかったり、わかりにくいものになってしまっては社会的な損失になる。逆にそういう特殊技能はあるのに人に伝えるべきものはない、という人もおり、その人が活かされないことも損失である。


人が職業や職種を選択するときには、最終工程の作業への適性に重きを置くことが多い。絵の上手くない人が画家や漫画家を選択することはあまりなわいし、作文の苦手な人が作家を選択することも少ない。ただ、その作業はできなくても作品を創り出す能力はある人も少なからず存在する。そういう人達も「創作者」と認められるようになれば、優れた作品が今よりも多く生み出されるような気がする。

非国際化の恩恵

少し前に、フランスが富裕層向けの課税を強化するといった報道が出ていた。フランスも国家財政はあまり余裕がなく、その穴埋めのため、大きな反発の出にくい金持ちから取ろうという発想らしい。この政策に対して、富裕層が国外に大量流出してしまうのではといったことが話題になっていた。


日本の最近の政策もあまりフランスと変わりがない。給与控除の上限規制なども同様の趣旨の政策だし、もともと高所得者に対する課税はかなり厳しく、元中日ドラゴンズの井端が今季にもらう年俸はほとんど税金になってしまうとも言われていた。


では、なぜ日本では富裕層の国外流出というのが話題にならないのかといえば、食事の質の高さなどを含めた日本の居心地のよさもあるが、最も大きなものは言語的な壁だと思う。もしも、日本の多くの人が英語の日常会話に不自由しないとしたら、海外への移住は飛躍的に増えていると思う。そして、移住を選ぶ人の多くは高所得者、もしくは海外で高所得を得ることのできるハイスキルの人だと思う。


そう考えると、日本語の閉鎖性に守られているのは、他でもない日本政府であり、日本という国家だといえる。日本の学校での英語教育が役に立たないなどと言われて久しいが、何十年経ってもあまり改善されないのは、もしかしたら日本の体制を守るための方策なのかもしれない。さすがに少し行き過ぎた考えだとは思うが、もしも逆に日本語が世界の多くの地域で通じるとしたら、それでもあなたは日本に住むことを選択するだろうか。

ゼロ なにもない自分に小さなイチを足していく

巷では「ホリエモン」の獄中の思いも綴った本ということだったり、朝日新聞編集者のこの本に対する書評が酷いと話題になっていたりするのだが、この本を読んで見るなら、そういう色眼鏡的な先入観はなくして読んでみて欲しい。堀江さんは20代で時代の寵児となり巨万の富を得て、その後、経済界や世間から猛烈なバッシングを受け、果ては犯罪者となって地位も財産も失った。そんな彼が「今でもただ働きたい」と述べる姿には、「働くこと」への自分の価値観を見つめ直さざるを得ない。


この本は、ジャンル的には自己啓発的な本だが、書かれているメッセージの熱さに特徴があるように思う。本の中で繰り返し述べられている「自分の頭で考えること」「何かに依存するのでなく自立して生きること」「自由を得るためには責任を負うこと」など、一つ一つのメッセージはそれほど独創的なものでなく、他の自己啓発本でも多かれ少なかれ触れられている。それでいて、メッセージが熱く感じるのは、一般の自己啓発本が「僕のやり方を教えてあげるよ」的な上から目線のものなのに対し、堀江さんのメッセージは「読者に、そして世の中に変化をもたらしたい」という一途な思いのもとに書かれたものだからだと思う。


彼が時代の寵児だった時期、プロ野球球団の買収や衆院選に立候補したことの意味がわからなかった。ライブドアにどんな経済的効果があるのだろうとか、売名行為にしてもやり過ぎなのではとか思っていた。だが、今この本を読んでみると、それらの行動も「世の中を変えたい」という思いのあらわれだったのだなと、ようやく少し理解できた。
彼の考えや行動は、ビジネスマンという枠を超えていて、歴史上の英雄的な要素があったというと言い過ぎなのかもしれないが、ビジネスマンとしては優秀な財界人たちも彼のことを当時、理解できなかった。そしてその理解不能なことが周囲の恐怖を生み、その周囲の恐怖が彼を転落に追いやった気がする。


堀江さんに無為な時間を過ごさせたことは、この国にとっても大きな損失だったと思うが、まだ彼にも残された時間は多い。これから彼が何をしてくれるのか、非常に楽しみであり、自分もそれに少しでも貢献できればと思わせてくれる。さぁ働こう。

メッセンジャーは悪くない

元米国務長官コリン・パウエルが何かの講演で「Don't shoot a messanger」と語っていたのをふと思い出した。意味は文字通り「報告者を責めてはいけない」ということだが、最近自分自身が報告者にきつく当たってしまったことが何度かあった。


自分にとって望ましくない報告を受けたとき、どうしても感情が高ぶってしまい、その感情を報告者にぶつけてしまいがちになる。だが、報告者は単にそれを伝えるよう言われただけで、報告の元となる事象には何ら関与していないことも多いし、ときには伝える義務がないのに善意で報告をしてくれることもある。その人に対して、さもその事象の責任があるかのように当たり散らすことは、報告者の敵意をかきたてることにもなり、またより困ることに、次回から報告者が悪い事象を伝えるのを避けたり、事実を少しねじ曲げて報告するようになってしまう。


報告の場合において顕著だが、同じことは多くの人間が絡む仕事でよくある。例えば、自分が突然締切が迫った仕事を振られたとき、その憤りは仕事を振ったその人に向くが、実はその人もその前の人から締切間際で振られただけで、その人としてはどうしようもなかったかもしれない。
感情が直接の相手に向いてしまうのは多少止むを得ないが、どこかで理性的に背景や本質的原因を想像するようになっていければと思う。


僕のところに報告に来た人も少し可哀想だったが、三国志などの歴史書を読むと、領主の意向を伝える使者の少なからずが、相手に殺されている。たとえちゃんと務めを全うして生きて帰ったとしても、大して評価はされないし、今も昔も報告者は報われない仕事だったのだな。

規模と難易度

「遅れているプロジェクトに要員を追加してはならない、それはさらに遅延を拡大させるだけ」というのはプロジェクトマネジメントの有名な格言で、僕自身もプロジェクトの仕事をしていると、このことを強く実感することが多い。ただ、これがなぜなのだろうとずっと考えていたのだが、規模と難易度の関係に起因するのだろうということがわかってきた。


規模と難易度の関係というのは、人が多くなれば規模の大きなことをできるようになるが、難易度は逆に低いことしかできなくなるということを意味している。人が増えれば、どんなに選別をうまくしたとしても、能力や意欲のばらつきが大きくなっていく。この中で一定の成果をあげるためには、ある程度低めのレベルに揃え、全体の歩調を合わせるしかなくなる。逆に少人数であれば、そうした標準化的作業は不要で、難易度の高いことを成し遂げられる可能性はある(もちろん、少人数ならば常に可能ということではない)。


プロジェクトの進捗の話に戻ると、遅れた状態を元に戻すきっかけを作るのは、何らか複数の作業を並行させたり、生産性の高い(と思われる)新しいやり方を採用したりと、通常よりも難易度の高いことが必要になる。なので、このタイミングで人を増やしてしまうと、難易度の高いことに取り組むはずが、対応できる難易度のレベルは逆に下がってしまう。
進捗のリカバリーのきっかけができ、あとは量をこなしていくだけ、となったときに初めて規模が生きてくる。そのことを見誤って、遅れたらとにかく人を投入するというプロジェクトが世の中にはあまりに多いような気がする。


今が難易度を求められるフェーズなのか、規模を求められるフェーズなのか、それを見極めるのもプロジェクトマネージャーの手腕の一つなのだろう。

クラウドソーシング時代のサバイバル術

最近巷で少し話題になっている単語で、「クラウドソーシング」というものがある。有名ブロガーのちきりんさんが取り上げたことや、ヤフーが「Yahoo!クラウドソーシング」というサービスを本格的に開始したことなどが、この話題に火を付けた。


クラウドソーシングが何かと言うと、簡単に言えば、不特定多数同士の作業の受発注を仲介・紹介することである。発注側は人を雇うことなく作業を依頼することができ、成果物に対して対価を払う。受注側は自分の都合のよいときに、やりたい作業を見つけて報酬を得ることができる。
ちょっとしたメールの翻訳や、小規模なプログラミングなど、内職的な作業がやり取りのメインではあるが、海外では高度な法的助言や企業の技術的課題の解決など、専門知識を要する作業の受発注も出てきているらしい。必要な作業を細切れにして発注するという流れが強まれば、これまで「知的労働」と言われていたホワイトカラーの仕事も、工場のライン作業のようなブルーワーカー的側面が大きくなり、単価・賃金の下落は避けられない。


もちろん、雇用関係をベースにした今の労働社会が急に変わるとは思えない。ただ、雇用にかかる多大なコストや、解雇への様々な規制を考えると、人を雇うよりも必要な作業を都度発注するという流れが徐々に強まってくることは間違いない。
そんな時代にある程度の高賃金を得ていくためにはどうしたらよいのかを考えたのだが、二つの道しかないと思う。一つは、目的を達するための仕組みを自分で創れるようになること、もう一つは仕組みのない中で自力で稼げるようになること。前者は生産体制や販売オペレーションなどを構築し、その仕組みを実際に回していくということを意味する。後者は、外資系金融などのように恒常的に儲かる仕組みのないところで、成果を上げ続けるようなイメージである。その二つのどちらにもなれなければ、誰かが創った仕組みの中で作業をこなしていく生き方を選ぶしかない。


自分の進むべき道や得るべき経験、自分の子供に与えるべき経験や育むべき能力、そういったことを今後考えていくうえでも、上の二つのどちらの道に進ませたいのかを意識していく必要があると思う。学校教育は、決まった仕組みの中で高いパフォーマンスを出させることを目標にしているに過ぎない。それを究めることが将来性を約束してくれる時代は終わりつつある。
冒頭のちきりんさんも紹介していたが、この本は色々考えさせられる内容だった。

クラウドソーシングの衝撃 (NextPublishing)

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