結果責任

東芝フラッシュメモリーの有名エンジニアだった方が書いた本の中で、日本の会社ではうまくいかなくなった事業部の課長が、同じ課長職で違う事業部に異動するが、こんなことは欧米の会社ではあり得ないと言っていた。欧米の会社では少なくとも降格、多くは事業部丸ごとクビになるという。もちろん欧米の会社といっても色々ではあるのだろうが、日本の会社の例が珍しいことでないのは異論がない。


簡単にクビを切ることが法的にできないという制度上の原因もあるが、それ以上に日本では結果責任を厳しく問われないという文化的な原因があるように思う。結果が失敗に終わっても、「この状況では誰がやっても同じだった」とか「予想していなかった事象に見舞われたのだから、しょうがない」といった理屈でほとんど責任を問われなかったというのを目にしたことは少なくないと思う。
もちろん、他の人に代わってもほとんどは同じ結果だっただろうということもあるし、それでその人だけが責任を問われるのは可哀想という気持ちも理解はできる。だが、結果に対するハングリーさをその優しさが奪ってきたような気がしてならない。


悪い結果に対してシビアに責任を求めない裏返しで、良い結果に対して「たまたま運がよかっただけ」「あの状況なら誰がやってもうまくいった」として大きく報いることをしない。このため、結果に対して貪欲になるかどうかは本人の気持ち頼みになっていて、仕組み的にモチベーションを上げさせるようなことがない。スポーツなどでは「日本の選手はハングリーさがなくなった」というような評論を耳にするが、それは個々人が悪いのではなく、仕組みの問題が大きいと思う。


オリンピックの男子サッカーの三位決定戦で、韓国の選手には兵役免除などの強いモチベーションがあった。それだけで負けたとは思わないが、技術では大きな差がない中でモチベーションの度合いが違うことの影響は小さくない。
たとえ運が良かったのだとしても結果を尊重し、結果に対して責任と報酬を与えなければ良い結果は出てこなくなる。