教育≠底上げ

「教育」とは「教え」「育てる」こと、というのは間違っていないのだが、「教え」「育てる」前に、(適性によって)「選抜する」ということがあるべきで、その「選抜する」要素が忘れられてしまっている。そのために、教育をする側も、受ける側も、社会全体としても、大きな不幸・不利益を招いていると思う。


よく言われることだが、中学や高校の数学を学んでも、大多数の人は社会に出てから使うことはない。これは、紛れもない事実である。「論理的思考能力を養うために数学を勉強する」とかいうのは、極端な話、勉強させるための口実でしかなく、論理的思考能力が必要ならば、そのための科目を用意した方がよい。
ただ、工業製品の製造や発明などといった分野において、数学が必要であるのも紛れもない事実で、つまり数学とは、社会全体としては必要不可欠だが、一部の人間が極めればよい、ものなのである。


能力が劣っているとかではなく、数学に適性のない人に対して、教育を行い続けるのは不毛な行為でしかなく、教える側も不幸だし、教えられる側も不幸になってしまう。


英語だって、同じようなことが言える。一般の人達が求めていて、かつ必要な英語の水準は、「海外旅行に行って、電話でチケットやレストランの予約ができる」くらいのものだと思う。そういった人達に対して、関係代名詞を使った英作文や長文読解をさせることは全く意味がない。よく使うフレーズやロールプレイなどを、繰り返し繰り返しやればいいだけのことなのである。


ただ、一方で、少数の人間には、英語を自由自在に使って、英語の契約書を読んだり書いたり、ネイティブとビジネス交渉ができるようになってもらわないと、社会として困る。政治家首脳や、グローバル企業の経営者が英語を話せなかったり、またはそういった立場になってから(他にもっとやるべきことがあるにもかかわらず)、英語を勉強したりしなければいけないのは、国家的な競争力を下げており、ひいては国全体が豊かでなくなってしまう。


「うちの子」が選抜から漏れてしまうことは、親には許せないのかもしれないが、「うちの子」が何に向いているのかを見極めて、その能力を高める手助けをしてあげるのも親の役目。


教育制度としては、全員の平均値を高めるべきもの(=一般的教養)と、特定の人間の最高値を高めるべきもの(=専門スキル)を明確に定義して、「何を」教えるのかだけでなく、「誰に」教えるのかも考えていかないといけないと思う。