客観的評価の弊害

日本の教育では、なかなか英語力が身につかないとか、論理的文章が書けるようにならないと言うことが言われて久しい。


色々原因はあるのだろうけど、その一つが、客観的な評価を、皆が求め過ぎることではないかと思う。英語が通じるかどうかといったことや、書いた文章のわかりやすさなどには、明確な採点基準はない。それを、生徒や父兄が、数値化した定量的な評価を求めた(かつ、教師側も基準がはっきりしていた方が教えるのが容易だった)ために、正解と不正解を明確に分ける必要が出て、その結果、読解中心の教育内容にならざるを得なかったのではないかと思う。


「彼はテニスをする」と英語で伝えるのに、He play tennis. とplays が playになっていようと、ほぼコミュニケーションとしては問題ないのだが、試験では不正解となってしまう。


社会に出れば、上司や顧客の一存で、自分の評価が決まるものであり、そこに定量的なものはない。社会に出てからの実践力を求めるのであれば、教師の主観的な基準で評価が決まる、ということを、許容していかなければいけないのではないだろうか。
そうでないと、いくら小学校で英語を教えようが、実践的な英語力は高まっていかないと思う。