本物の参謀

連休で少し時間があったので、「坂の上の雲」の後半部分を少し読んでいた。僕は、日露戦争の総参謀長だった児玉源太郎という人物を、とても尊敬していて、そんな児玉源太郎の名場面をいくつか探して、改めて感銘を受けた。


その中でも、僕が最も印象にのこっているシーンを一つ紹介。旅順への攻撃で、二百三高地を落とせないでいる乃木大将のもとへ、児玉が赴き、乃木に代わって指揮をとる。それまで、正攻法を繰り返して兵力を消耗していた作戦を大転換するよう、参謀たちに求め、大砲で歩兵の攻撃を援護射撃しろと命令する。そのときの配下の参謀(佐藤中佐)とのやり取りがこちら。

佐藤「閣下は、28サンチ砲をもって、二百三高地に援護射撃を加えよ、とおっしゃいましたが」
佐藤「となれば、味方を射つおそれがあります」
佐藤「陛下の赤子を、陛下の砲をもって射つことはできません」
といったから、児玉は突如、両眼に涙をあふれさせた。
児玉「陛下の赤子を、無為無能の作戦によっていたずらに死なせてきたのはたれか。これ以上、兵の命を無益にうしなわせぬよう、わしは作戦転換を望んでいるのだ。援護射撃は、なるほど玉石ともに砕くだろう。が、その場合の人命の損失は、これ以上この作戦をつづけてゆくことによる地獄にくらべれば、はるかに軽微だ。援護射撃は危険だからやめるという、その手の杓子定規の考え方のためにいままでどれだけの兵が死んできたか」

この児玉の台詞は、それだけを見れば、誰もが尤もだと思うのだが、実際にこのように決断することは、非常に難しい。やはり、感情的に、「敵に殺されるならまだしも、自軍の砲で味方を射つことは許容できない」と思ってしまうのが、一つの人間心理である。


どうしたら、この児玉のような作戦を立案し、遂行できるのか、と考えていた。それには、大目的に対して自分が主体的に使命感をもつ、ということが必要なのだと思う。児玉は、徹頭徹尾、「日本をこの戦争に勝たせる」という大目的に対して、使命感を感じていた。だからこそ、そのために、少数の兵を犠牲にするという、ある面で非常な決断を下すことができたのだと思う。
普通の参謀であれば、「与えられた情報や戦力から、ベストと思われる作戦を立てる」という小目的だけに責任を感じ、それでうまくいかなかったとしても、「インプットの情報が誤っていた」「作戦はベストだったが兵が無能だった」などと言ってしまう。そういう参謀は、決して少数を犠牲にするような作戦を立てない。なぜなら「勝つための作戦」ではなく、「理論的に欠点のない作戦」を立てることが、その人にとって重要であるから。


児玉は、日露戦争で精魂を使い果たし、終戦の翌年に生涯を終える。
日露戦争で日本が勝利できたのは、決して運が味方した「奇跡」ではなく、並外れた使命感をもった本物の参謀が、トップにいたからなのだと思う。